『常勝する負け犬』

【本記事は2008年に執筆したものに加筆・訂正したものです。】

 俺の名前はハンク。負け犬だ。(威張るなよ。)
人生を負け犬でおくるのも悪くない。
負け犬には負け犬の美学があるからだ。度重なる落とし穴は経験と知恵を与えてくれる。
負け犬にも色々ある。罠から復讐心しか得ない奴はクソだ。
負け犬は狡猾でなければならない。
負け犬は、いや、負け犬だからこそ常勝しなければならないことがある。
その戦いに勝ち続けることを、人生の落とし穴が教えてくれるからだ。
戦いは任務にも似た、一瞬のミスで取り返しがつかないことになるものだ。
戦い。
それは、腹痛との戦い。

 腹痛は、いつも、突然やってくる。(頭悪い一行だな。サラリーマン川柳かよ。)
今回の戦いはこうだ。
俺は約3kmを徒歩で目的地まで移動しなければならない。
出発地点から200mほど歩いたときだろうか。奴はやってきた。
激痛は理性を着実に吸い取り、気の緩みは二度と生きては帰れない状況を招く。
糞まみれで電車に乗れるか?それ以前に、公衆の面前で糞まみれになったならば、廃人を目前としたジャンキーのように瘡蓋さえできない傷が残る。

 選択肢はいくつもある。
しかし、そのどれを選ぶかは経験と直感だ。
駅に戻って駅のトイレに駆け込むか?馬鹿を言うな。最も愚かしい。
平日の個室トイレの前は行列のできる飯屋だ。途中で「今日の分は完食されました」と言われるような事態に陥ったり、評判のわりに食えたもんじゃないことだってありえる。
つまり、目前にして漏らしてしまったり、なんとか個室に入っても床一面に広がる糞尿、この世のような糞世界で足の踏み場もない可能性の方が高い。
こういった安易な選択をする輩は、ボクシングでいえば六回戦止まりのあまちゃんだ。
同じ敵と戦っているというのに、他人のことは全く考えない。讃え合うという気持ちが微塵もない。あっさり理性を吸い取られた愚か者だ。

 デパートはまだ開店していない時間、コンビニに駆け込むのも手だ。
だが、オフィス街のコンビニは得てしてこの時間帯、暢気に長々と使っている奴が多い。
まるで、その気があるようで、たどり着いてみれば実は既に恋人がいる思わせぶりな女のようだ。
実際、通勤時間帯のコンビニをたむろしてみるといい。
スポーツ新聞を小脇に「ちょっとトイレ借りるね」というオッサンを目にすることができるだろう。
ちょっと、ではない。奴らは日課として「朝の快便とスポーツ新聞」のために長々と閉じこもるのだ。

 移動手段を電車に変えることを考える輩も多い。
これは非常にリスキーだ。ホームにたどり着くまでの時間、電車の待ち時間を計算してもだ。
何故なら、こういうときに限って人身事故で運転見合わせやら、体調不良のお客様がなんとかで大幅な遅れがあるからだ。どっかのアホが悪戯で非常停止ボタンを押した日には、水面蹴りで脚を折ってやりたくすらなる。
大体、予定通りに運行していたとして、俺の歩くスピードと比べたら数分しか時間短縮に繋がらない。
俺は予定通り徒歩で目的地を目指した。

 焦りは禁物だ。
徒歩だと二十数分でたどり着けるだろう。走ればその三分の一でたどり着ける。
走るのは危険だ。
頻繁にジョギングをしていた頃、ペースを維持するために体幹でバランスをとりながら走る癖が身についた。
それは制御不能な放屁も伴うもので、この状況下でそれは自殺行為というものだ。
俺は自分に言い聞かせる。
「いいか、目の前じゃない。二つ先の信号の変わり目を見逃すな」。
負け犬は狡猾でなければならない。理性を保ちながら、目視できる信号の変わり目で歩くスピード配分を行うのだ。
痛みと気の緩みは立ち止まると一気に増大する。
景色を眺め気を紛らわせ、敢えて大口を叩かず控えめに行動するように注意をはらうのだ。

 オフィス街とオフィス街の間に、公衆便所が存在することがある。
これも危険だ。早朝はまだ清掃前で、嘔吐物やどうしても我慢できなくて便器の周りにまき散らした糞を目にする羽目になりかねない。
また、トイレという存在を視界に入れることにより、気の緩みが生じる。
焦るな、注意をはらえ、落とし穴が目的を目前に掘られていたことを忘れるな。
俺は無事、目的地に到着し、ゆったりと小綺麗なトイレで用を足すことができた。
また勝った。いや、大雪で渋滞、監禁状態のバスで三時間は耐えた戦いに比べれば緒戦のようなものだ。
そうだ、あの持久戦はタフだった。

 今日、暑さではなく、腹痛による脂汗をしたたらせた青年を電車内で見た。
俺は「大丈夫だ。判断さえ誤らなければ勝てる。諦めるなよ」と声をかけたかった。
彼は下車するや、へっぴり腰で必死に走り始めた。愚かな。
俺の名前はハンク。負け犬だ。
負け犬には負け犬の知恵がある。直感がある。誰にも飼い慣らされないような狡猾さが必要だ。


You may also like...

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">

Top